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伊陶屋 目次ページ

 

唐津焼

   唐津の土 その三

 

 前回、唐津の土について、その特異性や生成の地質学的な視点より論じてきたが、最も基本的な事を明らかにして置く必要がある。

 唐津焼は見た目には陶器であるが、本質的な部分は磁器である。唐津の陶土は成分組成が磁器的であると言って良い。磁器と陶器の違いを尋ねられたら、磁器の特徴として、白い事、水が沁みない事、或いは透光性がある事などを挙げるであろう。それに対して陶器は、焼き締りが悪く、水も沁みるし透光性がない、と答えるに違いない。何故そんな事を言い出すのかと思われるであろうが、唐津については、そこの所が問題になるのである。

 陶器土の代表とも言える萩土や志野陶土は、圧倒的に粘土成分が多く、どんなに微粒子に砕いて高温で焼成しても、磁器にはならない。正確に言えば、通常の磁器を焼いている温度では磁化しないと言う事である。ところが、唐津の土は、山瀬を例外として全て磁化する。組成を見ればクオーツと長石が多く、磁器土にきわめて近いのである。違いは鉄分やチタンなど、夾雑物が多い事、粒度分布が粗い方と微粒子成分に分かれていて、両極にピークを作っている事、つまり中間粒子が少ない事が特徴として挙げられる。

不思議なことであるが、粒度分布の違いが、焼き物の性質に与える影響について、正確に把握されてきたのは、ほんの最近のことである。唐津焼など陶器では、およそ見当違いの事が、あたりまえとして通っていたのである。前回にも書いたが、現代の唐津焼は、粗い砂が多く混じった陶土を使用してきた。その結果、叩けばボコボコと言う音がする、奇妙な唐津焼となってしまったのである。

唐津は最も古窯跡の発掘された所である。その気になれば、陶片は容易に手に入る。その陶片を見れば、昔使われた陶土と今の陶土の違いを認識するのに、さして知識を必要としない。一目瞭然である。唐津には、「古唐津の陶片が作陶の手本であり先生である」と言う窯焼は多いにも関わらず、古唐津に似た物さえ出来ないのは何故か。真剣に古唐津が研究されたとは思えないのである。

現在では、陶土は陶土屋が配達してくれる。陶芸に関する本はいくらでもある。その通りにやれば、そこそこの物は誰にでも出来る。  私は大方の唐津の窯元を陶芸家とは呼ばない。あえて陶芸家と言わず窯焼と言うのは、作品にオリジナリティーがなさ過ぎるからである。陶芸家と言うからには、オリジナリティーもアイデンティティーもなければならない。

本州在住の陶芸評論家から、唐津焼は古唐津の真似ばかりで何ら新規性がない。あれは陶芸家の作品ではない。と言う言葉を聞くことがある。オリジナリティーを論じるのであれば、それは当たっている。しかし私には、あなた方に言われたくない、と言う気持ちが湧き上がる。唐津が分っていないのは、唐津批判の先生方も皆同じであって、盲目が象を撫でて議論をしているようなものだと思っているらである。

食器として作られた古唐津は、既に四百年前に完成の域に達していて、それに手を加える必要がない。完璧にコピーを作る事が出来れば素晴らしい事であるが、それが出来ないところに悩みがある。出来ない理由は陶土の違いである事を、前回までに述べてきた。

陶土屋に、高名な陶芸家が使用している土だと言われれば、それを競って購入し、誰かがオリジナルを出して当たれば、臆面もなく真似をした。粉引きなどその良い例である。古唐津には粉引きは無かったのだから、李朝粉引が参考になったのであろう。ところが、いま唐津で作られる粉引きは、李朝粉引きにも似ていない。ここでも陶土と化粧土の選択を間違っている。

李朝粉引きは磁器かと思うほど、化粧土の食いつきが良い。胎土も確りと締まっていて実用に耐える。カオリン系の陶土で出来た陶器は、一見火度が上がっていない様に見えて、充分に実用になる強度を持っている。それに、白いカオリン単味で出来ている化粧土は強靭であり剥げる事がない。唐津の粉引きと比較すれば、その差は歴然とする。

唐津の粉引きに使われる赤土には、ガラス成分を多く含む物がある。ガラス成分を含んでいると、火度が上がれば容易に発泡するので化粧土が浮き上がる。化粧土も滑らかに焼き締まる組成をしていない。従って実用にならない焼き物になる事が多いのである。ただし、黴が生えて汚くなったり、ダニがうようよしたりしても、景色があると言って気にしなければ、使って使えない事は無い。

そこに、茶の湯の世界では許されると言う、奇妙な理屈が登場する。柔らかい土味を賞味する唐津は茶陶であるから、実用食器とは違うのだと言う言い分である。私には、くだらない屁理屈としか思えない。

何故こうなったのであろうか。唐津焼全体に言える事であるが、現在の唐津焼が古唐津をモデルとして再現された時、陶土を含めて、素材の考え方に決定的間違いがあったのだと思う。私は、古唐津が他の陶器と区別される所以のものは、絵唐津にあると思っている。鉄錆の絵の具で絵を描いた陶器は、志野を除けば他に無いからである。絶対無い訳ではなく、産業的規模で生産された所が無いと言う事である。鉄絵の技法は磁器原料の発見と共に生産の拠点を有田に移し、染付けの生産で開花した。天狗谷や古伊万里へと発展していく事になる。『唐津の土』を書き始めた当初にも書いたが、人は経験の無いことは再現できない。唐津の発祥とその後の展開は、きれいな道筋があるのではなく、幾重にも重なった歴史があるのであろう。ともあれ、唐津焼に従事した朝鮮陶工の中には、磁器土の製法と、鉄絵、呉須による染付けの技法を持つ者が大勢いたものと推測する。

有田に磁器鉱を発見したと言われる、李三平なる人物の存在に付いては、いささか疑念をもっている。何故なら、明治はあまりにも多くの歴史改竄を行ったからである。特に朝鮮が絡む歴史においてひどい。明治政府は、朝鮮を植民地としたのち、歴史の改竄を断行し、思想の統制を図った。それと同時に、懐柔策として、朝鮮人の耳に快い寓話も作り上げた。日本を東洋の一等国、朝鮮をその弟分とし、中国を二等国と位置付けた。故意に中国を蔑視する態度をとり、チャンコロと呼ばせた。今日でも、韓国でその残滓を見ることが出来る。情けない事だが、人は煽てに弱い。朝鮮独立運動の闘士でさえ、自分の耳に快い話は、作り話でも受け入れてしまう。肥前地区の焼き物のルーツに関しては、朝鮮の関わりは大きいものがあるが、冷静に検証しなければならない事が多いと思う。従って、江戸時代になくて、明治になって浮上した話は信憑性に乏しいと思っている。

朝鮮と朝鮮陶工に関することでは、おかしなことが多い。唐津研究の場で使われる言葉に、朝鮮から招聘した陶工と言う言葉がある。招聘とは『礼儀を尽くして、丁重に人を招く』事を言う。言葉の意味が解っていないのか、馬鹿にしているのか、いずれにしても快い事ではない。唐津の土に付いて書いていて、直接関係のなさそうな事をくどくどと言うのは、唐津の土が、朝鮮の陶磁器生産の技法と密接な関係があり、朝鮮を無視しては通れないからである。

さて、唐津の唐津たる所以のもの、絵唐津における陶土と釉薬、絵の発祥について私見を述べる事にする。

古唐津の窯跡を調べて見ると、凡そ全ての窯跡から、量の多少はあるが絵唐津が出土する。その中から、絵唐津の発祥とその後の傾向、胎土と釉薬の特徴を知る上で興味ある二つの窯を取り上げる。何れも、秀吉が名護屋に進出した時期に、開窯されたと考えられている。一つは、伊万里市松浦町提川にある、道園窯、次に、伊万里市松浦町藤ノ川内の阿房谷窯である。現在は『どうぞの』『あぼうのたに』と呼んでいるが、その意味は解らない。現地の地名でもないし、朝鮮陶工に因んで、韓国語の発音から種々検索してみたが、該当するものが無かった。この二つの窯は、直線距離で二キロの距離にある。尤もその中間には小高い山があり、直線には行き来が出来ない。山を迂回する村道がついていて、その道を行けば、凡そ三キロ程度の道程である。二つの窯の特徴は、他の古窯跡と違い、絵唐津が圧倒的に多く出土する。特に道園は特徴が著しい。胎土は磁器と見紛う程に磁化している。磁化すると言う表現は、ガラス化している事と混同しやすく、状態を正確に伝えていない事があるので、概略説明する。ガラスとは、液体が結晶することなく固化した物であり、原則としてその固体の中に、結晶相は無い。磁化している状態とは、シリカとアルミナの高温における化合物であるムライトが生成され、その結晶相の間をガラスが埋めている構造の物を言う。従って、一般には、ガラスは脆性破壊に弱く粘りが無い。それに比べて、磁化した状態では、骨材としてのムライトが成長していて強度が勝っている。

鉄絵は高温に曝されると鉄砂となって発色する。その仕組みは、絵の具として使われている酸化鉄、多くの場合、水酸化鉄が釉薬の中に溶け込み、表面に湧出して薄い結晶を作ることによる。ただし、釉薬の組成がアルミナリッチである場合には、アルミナが鉄を抑える方向に働くので発色し難い。つまり、長石立てと言われる、長石を主体とする釉薬ではきれいな発色は期待できない。道園は他の窯に比べて鉄砂の発色が鮮やかである。この事は道園の絵唐津に施釉されている釉薬が、長石立てでなく、シリカ分に富んだ釉薬である事を示している。そして今ひとつの特徴は、一際強く焼き締まる道園の胎土である。容易に焼き締まる道園の胎土は、鉄絵の具を胎土に吸収することが少ない。その分釉薬に溶け込む鉄分が多くなり、鉄砂の発色が鮮やかになる。

道園で使用されている陶土は、三種類に分ける事ができる。比較的大きな物を作っている粘り気の強い赤土と、椀物や皿など小型の食器の内、飴釉をかけている物、透明系の釉薬をかけている三つの陶土である。

粘り気の多い赤土は、火山灰が風化して出来た粘土である。最表層に近いところにあって、大量の採土が容易な事と、精製せずに使える事から、大型の甕など紐作りの原料とする。ただし、未風化のガラス質を多く含んでいる物は、不用意に火度をあげると火膨れを起こす事がある。道園窯の出土品には紐作りの物であっても、甕のように厚手の物は見当たらない。押し並べて古唐津の紐作りの厚さは五ミリ程度に成型されている。極めて薄いのが特徴である。水甕など大型成型品が千度程度の比較的低温で焼成されるのに対して、古唐津の紐作りでは千三百度近くの高温で焼成されている。従って、陶土にガラス質を多く含んでいると、所々に火脹れを起こしやすい。同じ紐作りでも、岸嶽系(特に飯胴甕窯)の紐作りが、砂岩及び頁岩を原料とした陶土で、磁器のように充填されているのに対し、道園では赤土をそのまま使い、火脹れを起こしたものが多く出土する。成型時の粘りは、赤土の方が勝っているので、作り手の個性が現れ易く、より野趣に富むものがある。

唐津の研究を始めた頃、道園の絵唐津を作っている陶土は、窯跡周辺の田や畑の底土であろうと思っていた。確かにこの付近の田の底には、鉄分が少なく、小さな砂目の粘土が大量にあった。私が掘り出しただけでも二千トン以上になる。その粘土で成型し、うまく焼けば、何とか古唐津の道園に似たものができた。しかし、どうしても同じ物はできないのである。古唐津の陶片のように、鉄砂を発色させようとして温度を上げれば、胎土が発泡して沸き上がる。形が崩れる。これはおかしいと、耐火度試験をしてみた。ナマ土でSK一五乃至一六番であることが分かった。陶片の方は、素焼きの陶片も、硬く磁器のように焼かれた物も、凡そSK一八番である。焼成して一八番と言う事は、ナマ土で一九番程度あったことになる。これでは古唐津と同じ物はできない。陶土が違っていることがはっきりしたが、この付近の何処を探しても、SK一九番程度の粘土はないのである。そこで、耐火度の弱い土に、強い土を混ぜたのだろうと考えた。改めて周辺を探したら、SK三一番ある粘土を探し当てた。計算して、SK一九番になるように混合し、試験焼きをして驚いた。全く違う物ができるのである。これで、道園の絵唐津を作った土を探し出す方策は万事休す。

諦めてしまった訳では無いが、どうにも手が無いので、釉薬を考える事にした。今日の唐津では、透明系の釉薬は、正長石、曹長石など、市販の長石に木灰を混ぜて作る。古唐津の時代には、いま市販されている長石を使用していない事は明らかであるから、使用した釉薬原料が違っているはずである。陶片を良く観察すると、道園の絵唐津は、釉薬の透明度が高い。長石と灰だけの釉薬に比べると、珪酸分が多い事が考えられた。古唐津の釉薬の中では、珪酸分の多い釉薬として藁灰釉が知られている。藁灰釉は白濁するが、道園の絵唐津には白濁したものは無い。従って、道園の絵唐津は藁灰を使った釉薬でないと思って良い。珪酸の多い透明系の釉薬原料として、ペグマタイト鉱が考えられる。釜戸長石などに代表される原料である。ペクマタイト鉱は岸嶽周辺に露出しており、これを使った可能性もあると考えた。しかしまだ問題は解決しない。釜戸長石と木灰で作った釉薬では、大きな貫入が入り、ガラスを張ったようで、道園の絵唐津とは明らかに違うのである。何度試験してみても道園の絵唐津を再現できない。仕方が無いので、手当たり次第に粘土を加えてみた。少しずつ、段階的に量を変えて試験したが、どうしても昔と同じ物はできない。今度の場合も途方にくれて、何度も道園の窯跡に足を運び、ぼんやりと周辺を眺めるばかりであった。

道園の陶土と釉薬が解ったのは、偶然の事からである。道園窯跡の横を、細い溝と云うほどの水の流れが、二百メートルほど下の小川に注いでいる。その接点になっている所に、山から迫り出した岩がある。何気なくその岩を見ていたら、その一部分が崩れ落ちていた。黒い岩だと思っていたのは、表面を覆っている苔のせいで、白い岩だと気がついた。手にとって見ると、砂岩の様でもあり頁岩の様でもある。とりあえず持って帰り、乳鉢で擂り潰してみると粘土の様になる。そこで残りの岩をボ―ルミルに入れて微粉砕し、促成の陶土を作った。轆轤にかけると、どうにか成型できる。乾燥を待って試験焼きをしてみた。焼き上がった物は、今までに無く道園の陶片に似ている。急いで耐火度試験をして、SK一九番である事を確かめた。やはり古唐津を作った原料は窯の傍にあった。しかしその原料は、粘土状では無かったのである。陶石とも言える形状であれば、古唐津の陶土原料は、粘土状で産出すると思っているので、探しだすことが出来なかったのである。その陶土に灰を混ぜて釉薬とし、SK九番で焼いてみた。陶片と寸分違わぬ釉面をしている。釉薬も別に長石など使ったのでは無く、胎土その物であった。

道園は不思議な窯である。絵唐津が圧倒的に多い事は前に書いた。その絵唐津に絵の無いものが多いのである。絵が無くて絵唐津とは、何の事だか分らないが、要するに、胎土と釉薬は絵唐津と変わらず、絵だけが無いのである。茶碗など、甘い焼きの物を無地唐津と言う事もある。古窯跡で絵唐津の陶片を収集するときに、絵の無いものが選ばれる事はまず無い。そこで絵唐津とは、全て絵があるものと思われている。

しかし、道園について言えば絵の無い絵唐津が多いのである。それに描かれている絵も、あまりにも稚拙なものがある。その稚拙さを、侘寂で語ったり、禅を持ち出したりしては話が続かない。あくまで一つの推論であるが、絵唐津の初期には、絵を描く必要が無かったのではなかろうか。

皿や碗を中心にした実用食器を作るように命じられたが、絵を描く事は注文に無かった。手慰みに落書きする者があり、稚拙な絵をつけた。別に咎められることも無く、むしろ絵のある事が喜ばれた。そこで、絵をつけていた経験のある者が絵をつけ始める。その様にして絵唐津が定着していくのではないかと考えている。それは他の窯の絵唐津を見るとき、その思いを強くするのである。

絵唐津を特徴とするもう一つの窯、阿房谷窯では、道園に比べて絵の完成度が格段に高く、稚拙な物は殆ど無い。絵の無い物でも、縁を鉄で巻いた皮鯨手と言われる手法が採られていて、何らかの装飾を施している。阿房谷窯は、絵をつける事が定着した時期に開窯されたのであろう。

道園で陶石状の原料を使っていた事が分ってからは、古唐津に対する考えが変わってしまった。阿房谷でも同様の原料では無いかと周辺を探したら、道園に比べて粘土分が多い優秀な頁岩がある。鉄分の少ないところを微粉砕して陶土を作り、轆轤に掛けると、道園よりはるかに成形性が良い。SK八番で焼いた物は、紛れも無く阿房谷である。唖然とする思いであった。阿房谷も、陶土原料は粘土状では無く、頁岩の状態であった。

ここで、古唐津の陶土についての定説に疑問が湧いてきた。唐津焼の陶土の製法を記した古文書に、唐津は絹濾しという文言がある。この文書は、椎峰全盛の頃書かれた物であるから、対象とする古唐津の陶土には適用できない、とする考えが支配的であった。数々の、唐津に関する出版物を見れば明らかである。その中でも、水町和三郎氏の『古唐津上下』は、その中にある技術資料を含めて、現代唐津焼に大きな影響を与えてきたと言って良い。その後出版された唐津研究の記述が、技術論に関する限り、この本の孫引きである事実が影響の大きさを物語っている。私にとっても、この本はバイブルであった。しかし、記述の技術的な部分は信用できるのであろうか。詳しく調べていくと、陶土や釉薬に関する記述は、昔、名古屋工業試験場の技官であった、仲尾氏の研究論文であったことが分った。

水町氏の本には、仲尾氏の論文の引用である事を明示していない。まして、その後の孫引きにした本に至っては、この技術資料の出典さえ知らなかったのであろう。不幸な事は、唐津の陶土と釉薬に関する唯一の技術資料が、仲尾氏の論文であった事である。氏の論文が間違っていた訳ではない。当時の分析技術とその解析法では、良く書けていると思う。

仲尾氏がこの論文を発表した当時、X線回折は、まだ手軽に行える分析では無かった。化学分析に頼って、結論を推理したのが仲尾氏の論文である。今日の分析技術から見れば、無茶な推論と言うべきであろう。今日では、かなり正確に、生きた粘土や釉薬の姿を見ることが出来る。陶片をあらゆる角度から分析し、かなりの精度で昔を再現する事も不可能ではない。水町氏の『古唐津上下』が刊行されてから、早くも二七年が過ぎようとしている。その間に、分析技術は飛躍的に進歩した。中でも、X線回折法の進歩と普及が著しい。高温X線回折法では、粘土を加熱したとき、分解され或いは化合して、刻々と変化して行く様を、リアルタイムで見る事ができる。三〇年前には考えられなかった事が、僅かの費用で出来るほど、研究の事情は改善されているのである。

唐津研究で不思議なことは、現代の科学から隔絶したごとく、この進歩した技術を利用した形跡が無い事である。昭和三〇年代に書かれた論文が唯一のもので、その不完全さを指摘した議論を聞いた事も無い。

今後の課題は、古唐津研究に最先端の科学的思考法を取り入れ、骨董鑑定論的議論から脱却しなければならない。本物の古唐津の再現なくしては、全ての議論が空しいと思うからである。

 

 

 

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