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唐津古窯跡探訪

古窯跡探訪をはじめるにあたって

唐津焼は、文久慶長の役と呼ばれている、秀吉の朝鮮出兵を契機に全盛を極めた陶器です。特にこの時期に焼かれた物を古唐津と呼んで、古陶磁の世界で重宝されていることは良く知られています。古窯跡の多いことは特筆すべきことで、現在でも未発見の窯跡が新たに見つかっています。茶碗や水差しなど現存する茶道具の名品が多い事もあって、唐津に関する研究書も数え切れない程出版されています。唐津は陶磁愛好家の関心を常に集めて来ました。

古唐津が焼かれた窯が集中している伊万里市や唐津市には、昭和の陶芸ブームに乗って窯が林立し、現在では唐津焼を焼いていると称する窯は50以上もあります。唐津は土味が命だと言われます。現代に唐津焼が復活したとき、その材料が最大の関心事でした。いい陶土を手に入れる事、それは取りも直さず成功を意味します。

唐津は砂目の土が特徴だと言われて、砂を多く含んだ土が好まれます。唐津の土は同じ物が大量に一箇所にあるのではなく、あちこちに少しずつ固まりとして産するために、同じ物が一つとしてないと言われてきました。その為に、いい陶土を手に入れる争奪戦は凄まじく、兄弟や師弟の間でも取り合いと裏切りが横行し、そのことを書くだけでも一つの物語が出来る程です。

ところが、そうして手に入れた陶土で作った唐津焼も、何故か古唐津とは違っていました。概ね焼締まりが悪く、水が染みたりひどい時には黴が大量に生えたりします。それも陶器であるからある程度は仕方無い事だと開き直り、「使っているうちに水の染みる事は止まります」、などと注釈を付けたり、防水剤で処理するなど、なんとも滑稽な有様です。使っているうちに染みなくなるのは、たくさん空いている空間に、いろいろな物が詰まるからであり、汚いことこの上もありません。そうして汚れて薄汚くなったものを、変わったとか良くなったと言って喜ぶお茶の世界は、少々サディステックでさえあります。

古唐津は現代唐津のように脆弱ではありません。窯跡から拾ってきた陶片は生地が緻密に充填されていて、全く水が染みることを心配する必要がないように見えます。これは殆どの古窯跡から収集される陶片に共通した特長です。現代の唐津は古唐津に比べて「用」の機能に関しては、はるかに劣るものしか作れていないのです。陶器、特に食器は芸術性はもとより、「用」の機能を無視しては成立しません。ここが唐津焼最大の悩みでした。

科学技術の進んだ現代において、何故昔のままの唐津焼が作れないのか、その答えはいつも決まって、昔使った土は使い果たし今は無いと言うものでした。無いものは作れないので、これで一件落着です。

しかしそれは本当でしょうか。古唐津を焼いた土は本当に使い果たしたのでしょうか。少し調べてみると、古唐津を焼いた全ての窯で、その材料となった土や釉薬の特定がなされていないことが分りました。ですから、無くなったのではなく、無くなったのだろうと言う事です。なぜそう思ったかについては、昔と同じ物を作り出すことが出来ないと言う事以外、さしたる理由は無いようです。

それではまだ見つかっていない幻の土があるのか、或いは古唐津は、今まで考えていたのとは全く違う技術で作られていたのか、古窯跡の探訪をしながら紐解いてゆきましょう。

ごく最近まで北波多村でしたが、今は平成の大合併で唐津市の一部となりました。この北波多村こそ唐津焼の始まりとして知られている所で、数々の物語に彩られています。松浦党の盟主であった波多三河守の居城を中心に、わずかばかりの田畑が散在する貧しい土地です。

伊万里市にある古窯跡

唐津市にある古窯跡

北波多村にある古窯跡

武雄市にある古窯跡